仏教改宗運動

カースト制
 むきだしの「生」と「死」を見せてくれる、私の大好きなインドであるが、しかし憎むべきことも“あからさま”である。貧者の暗く沈んだ眼があり、富裕者の勝ち誇ったような表情がある。その背景にあるのは“カースト制”という何千年も続く身分差別制度である。日本では見えにくくなってきた制度(かえって陰湿になってきた部分もある)が、インドでは今もなお“あからさま”にまかり通っている。
 バラモン(司祭)、クシャトリア(王侯・戦士)、バイシャ(農・商・手工業)、シュードラ(上位三カーストへの奉仕)、そしてこれら四階層(カーストヒンズー)にも入れられず、穢れた存在として差別される不可触民(アウトカースト、アンタッチャブル)。この“カースト制”はヒンズー教の教義に基づき、結婚・職業・居住を規制する神聖なる秩序として当然のように続いている。不可触民は街のはずれに住まわされ、カーストヒンズーと井戸を共有することも許されない。同じヒンズー教徒でありながら、寺院に入ることもままならないのだ。
 インドというと、お釈迦様の国、仏教の国だと思う人がいるかもしれない。しかし現在はヒンズー教の国である。宗教別人口比は、ヒンズー教75%、イスラム教15%、キリスト教3.2%、ジャイナ教3%、シーク教1.9%、その他仏教、ゾロアスター教など多数。つまりインドは仏教が発祥して、そして滅びた国なのだ。出自による差別はないと説く仏教は、ついにインド文化(ヒンズーイズム=カースト制)に受け容れられることはなかった。
 独立運動の父、マハトマ・ガンディはかつて不可触民を“ハリジャン”(神の子)と呼び、被抑圧階層の地位向上をうたった。だが、彼はカースト制そのものを疑うことなく、後述のアンベードカルと争ってカースト制維持のために“お得意の”断食をしたほどの人物である。皮肉なことに“ハリジャン”とは「誰の子かわからない」という意味もある。日本ではヒーローとして知られるガンディーであるが、不可触民解放を阻むような面も持っていたのはあまり知られていない。

アンベードカル
 このようなインドにおいて、カースト制に異議をとなえることは捨身の覚悟が必要である。しかし近年、不可触民の人々は自らの人間としての権利に大変な勢いで目覚め始めている。その原動力になっているのが「アンベードカル」の思想と業績である。

 B.R.アンベードカル博士(1891~1956)は、不可触民出身という貧困と苦境の中で、アメリカ・イギリスに留学し、哲学・法律・経済の学位を修めた。帰国後は独立運動とともに不可触民解放運動のリーダーとして活躍し、州会議員、国務大臣を勤めた。独立後の初代法務大臣に任命され、インド共和国憲法草案のほとんどを執筆したという。採択された憲法にははっきりと「不可触民制の廃止」がうたわれている。
 彼は解放運動の中で、一貫してヒンズー教を糾弾し、カースト制という非人間的制度の撤廃を要求し続けた。晩年は次第に仏教に傾倒していき、そしてついに1956年10月14日、インド中央部ナグプールにおいて、ヒンズー教を棄てて絶対的平等を説く仏教に改宗した。すぐに彼の呼びかけのもと、30万人の不可触民たちが集まって改宗式が行われ、多くの仏教徒が誕生することとなったのである。このインド史上画期的な出来事で、仏教復興の、不可触民解放の大きな一歩が踏み出されたのである。
 この改宗式のわずか7週間後の12月6日、アンベードカルは息を引き取った(一説には毒殺といわれる)。突然のリーダーの死に仏教徒たちは混乱したが、その後改宗運動は各地で進み、現在の推計では2000万人以上に達していると言われる。
 このように、アンベードカルの業績により、仏教徒は教育・職業の権利を獲得しつつあり、政治・経済においても決して無視できない勢力にまでなっている。

佐々井秀嶺
 アンベードカル亡き後、その精神を引き継いで、仏教復興のリーダーの一人になっているのが佐々井秀嶺師である。改宗運動の中心地ナグプールで彼は信頼と尊敬の念において絶大なものを得ている。

 1935年岡山県に生まれ、僧侶となるが日本仏教の現状を悲嘆してタイに渡る。31歳のとき、帰国を前にしてインドを訪れ、ナグプールの仏教徒たちと出会った。以来帰国することなくインド国籍を取得し、未就学児のための学校や無料診療所、仏教寺院を開設しながら、30年以上この地に留まっている。60歳を超える年齢であるが、全インドを精力的に回り、彼の勤める年間いくつもの改宗式には、膨大な数の不可触民が参加し、多くの仏教徒が生まれ続けている。その意志と行動力にはただただ敬服するばかりである。
 94年「アンベードカル博士国際賞」を受賞。過去の受賞者は、ダライ・ラマ、マンデラ大統領、マザー・テレサ、アラファト議長など、人権と平和に貢献した人たちである。
 最近は、ヒンズー教徒によって管理されているブッダガヤのマハーボディ寺を仏教徒の手に取り戻す運動を展開。ナグプールからブッダガヤまで約6000キロをデモ行進するなど、仏教復興に心血を注いでいる。

参考文献
 『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール/山際素男 訳(三一書房)
 『不可触民』山際素男(三一書房)
 『不可触民の道』山際素男(三一書房)
 『ブッダとそのダンマ』B.R.アンベードカル/山際素男 訳(三一書房)
 『カーストの絶滅』B.R.アンベードカル/山崎元一・吉村玲子 訳(明石書店)
 『インド社会と新仏教』山崎元一(刀水書房) 
 『夜明けへの道』岡本文良(金の星社)
 『不可触民の解放を目指して』白鳥早奈英(かのう書房)
 『アンベードカル物語』アナント・パイ編/村越末男 訳(解放出版社)


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