むきだしのインド
インドでは何もかもが“あからさま”である。日本では見えにくくなっている事柄が目の前にある。死が包み隠されず厳然とあるからこそ、生もありありと現実感をもって見えてくる。現実をまっすぐに見つめて生きなければならない厳しさは、自ずと聖なるものを希求させる。仏教がこのような土壌から生まれたことが理解できる。
日本では「死」はオブラートのようなもので覆われているような気がする。かつて家庭にあったなまなましい“あからさま”な「死」は病院に移されて、その後は葬儀屋と寺の手に委ねられ、あっと言う間に火葬されると、きれい過ぎる白骨のみが残る。また一方で「死」は忌み嫌われ、塩をまかれ、タブー視され、誰も真向かいになって語ろうともしない。「死」は私たちの手から離れてしまっている。「生」とは、「死」という鏡に照らし出されるものであるということを、私たち日本人はいつのまにか忘れてしまっているのでないか。「生」が現実感を失い、何だかふわふわとしたものになってしまうのも当然かもしれない。私がインドに魅かれるのは、“あからさま”でむきだしの、本物の生と死がそこにあるような気がするからだ。
路上生活者
インドに行くとまず目について驚かされるのがホームレスの多いこと。’92年、はじめてインド(ボンベイ)へ降り立ったとき、空港からホテルまでの夜道をバスで移動したのだが、よく目を凝らすとボロきれのようなものが歩道をびっしりと覆っている。ほどなくそれが就寝中の人間だと気づき、やり切れない思いがこみ上げてきた。読んだり、聞いたりするのとは大違いで、実際彼らの姿を目にすると頭の中の想像はぶっ飛んで、これがインドの現実だと思い知らされる。ほとんどの人は不可触民だろうなぁ・・・。
物乞い
どこへ行っても物乞いに出くわす。たいがいは女性と子供だ。本当に生活に困っている人も多いが、中には職業的物乞いもいる。もっとたちの悪いのは子供に物乞いをさせている者だ。
どのような種類の物乞いであれ、どう対応していいのか本当に戸惑ってしまう。まったく無視しても心が痛い。金品をあげてしまえば彼らをさらに貶めることになりはしないかとも思う。
そこで、自分なりに基準を考えた。「菓子や小銭をあげるのは子供だけにする。それも写真のモデルになってくれたり、ゴミひろいをしたり、車の窓を拭いたりして、少しでも代価を与えるに足る子供に限る。」と。心を鬼にして。
インド商人
インドの商人(みやげ物屋)には絶句する。観光地に行けば彼らはヘンな日本語を巧みに操り、しつこく付きまとう。少しでも相手にしようものなら、どこまでもどこまでも、ホテルにまで追いかけてくるのだ。そのしつこさは「商魂たくましい」というような形容ではまったく不充分、きっと産道を通ってくる前から「オニイサンコレヤスイ」と言っていたに違いない。
たいがい最初に数十倍の値段をふっかけてくる。1/10まで値切って、喜んで買ったとしても、「馬鹿な日本人はいいカモだ…」とニンマリされているだけだ。
マドラスでこんなことがあった。あるヒンズー寺院を見物したとき、サンダル屋が声をかけてきた。少し手にとって商品を見てしまったのが災いの始まり。あまりいい品ではなかったので、断るけれども、本当にしつこい。何とか振り切ってバスに乗ったが、次の寺院に来ると彼はニタニタしながら私を待っているではないか!聞いてみると自転車で来たらしい。この寺院を見終わってバスに乗るころには、お約束どおり1/10になっていて、彼はバスの中にサンダルを放り込んだ。外に投げ返すけれども「ヤスイ」といってまた窓の隙間から放り込む。どうにか発車間際に投げ返し、逃げ切ったのだった。気の弱い人なら買ってしまうだろうなぁ・・・。
とにかく彼らがまとわりつくと、ろくに見物もできないのだ。「あぁ、ここがブッダのいた場所かぁ・・」などと感慨に浸っていても、すぐにぶち壊されてしまう。そこで、あんまりしつこい奴には撃退法を考えた。私も彼らと同じように吹っかけることにしたのだ。腕輪念珠を見せながら、「ハンドレッドダラーズ、ヤスイヤスイ!!」と、ぐいぐい腕押しして言い続けると、たいがい引き下がるようになった。「ネクストタイムOK?」と聞かれても、「ネクストライフ、メイビー」と応えてやることにした。
しかし、彼らが鮮やかな日本語を操るのには、複雑な思いがする。日本人が自国の経済観念でもって金を出せば、インド商人たちはともすると年収に相当するような大金を一瞬のうちに手にできるという。どこか歪んだ関係が、“日本語”という鏡に映し出されて見てとれる。
食べ物など
知られるようにインド料理は健康食である。主食は北インドでは麦。発酵させずに薄いパンにする。全粒粉のチャパティなどが美味い。南インドの主食は米。おかずのいわゆる“カレー”は各地で様々な種類があり、どこで食べても違う味がする。野菜中心のものが多く、肉・魚類は少ない。そしておしなべてとても辛い。青唐辛子をそのままパクつく人もいる。
カーストヒンズーにはベジタリアンが多く、まして牛は神様の乗り物であって絶対に食べない。イスラム教徒は豚を不浄なものとしている。サドゥー(ヒンズーの出家者)の中には、根菜は命を絶やすとして、地面より上に実るものしか食べない人がいるという。
私はだいたい辛いものが好きなので、インドに行くと食事が楽しみの一つとなる。チキンやマトンもうまいけれど、お奨めは“ヴェジ”である。「野菜だけでないか」とあなどる事なかれ。最近の日本では、ハウス育ちのブヨブヨした野菜ばかりだが、インドの野菜は本当の野菜の味がする。ついつい食べ過ぎてまうと、同じように驚くほどよく“出る”。ほんとに健康食だと実感できるのだ。
とてつもなく辛い料理がある一方、菓子や飲み物は極端に甘い。チャイ(インドのミルクティ)も最初から大量の砂糖が入っていて、疲れた体を癒すのにはありがたい。“マサラ”(香料)も入っていて、ほのかに香り心も落ち着く。
そのほかいろんなスナックの屋台があり、摩訶不思議な食べ物がいっぱいある。少し驚いたのはタバコの屋台。普通日本では箱単位で買うのだが、一本ずつ買う人が多かった。