マラムレッシュ

 昔の県庁のレストランで昼食。15時15分ホテル・ティサ着。ちかちゃんが家に電話しようとするが通じない。タケさんも手助けするがだめ。諦めてマラムレッシュヘ出発。大きな門構えの家が続く。門には贅沢な彫刻が彫られている。家の前で糸をつむぐ老女がいた。ちょっと小ぶとりで頭に茶色の頬かぶり、ロングスカートに長靴スタイル。左手に羊毛の束を棒にくくりつけ、右手をくるくる回しながら糸にしているのだ。
 「この上の部分の彫刻は日本のしめ縄と同じです。横は狼の歯。魔除けです」とみやさん。糸をつむいでいた老女が言った。「フランティーズ?」。つまりフランス人かと言う訳だ。外国人はフランス人なのだろうか。

 2頭立ての馬車がくる。わらを山積みしてその上に若者が2人いる。カメラを向けると馬車を停めてポーズを取ってくれた。から馬車が行く。リヤカーにわら積みの婦人が通る。2頭立ての牛車も通る。全部絵になる。鍋を持った一行が通る。「ジプシー」だそうだ。色々な専門職があり、彼らは鍋の専門職というわけだ。男性は黒ずくめの服装で黒い帽子。それに対して女性の方は赤、黄、紫、空色などをまとい黄色のネッカチーフと鮮やかで、それぞれが直径2尺位の大鍋やバケツを肩にかついでいた。村々を回るのだそうだ。
 道の片隅でゴム跳びをしている10人位の子どもグループがいた。2本のゴムを渡し、その中を足を掛けたりはずしたりして、向こう、中、こちらとリズム良く跳んでいた。空色のジーパンの美人の少女が上手だった。バスを停めて拍手を贈った。ゴムはどうやらつむいだ糸のようだった。跳び方は日本のやり方とほぼ同じで、ババは「昔、おたまじゃくしは蛙の子、鯰の孫ではないわいな、と歌いながらしてた」などと懐かしがっていた。
 道幅が狭くなり、舗装もない村に入った。ルーマニア村が近い。みやさんがここに足を踏みいれたきっかけを話してくれた。
 仕事をやめて失業保険で生活したいた頃、東京で知りあったロシアの学生が家に来て、「なんでこんな小さな家で、こんな貧しい生活して、馬鹿ばかしい。将来もないじゃないか。こんどモスクワに招待するよ」といった。それから3週間ほどして彼から本当に片道切符が送ってきた。モスクワに1カ月ほどいて帰ろうとすると、「とんでもない。ここまで来て東ヨーロッパを見ないで帰るのか。フィンランド方面か、ルーマニア方面か、ギリシャ方面か」と迫る。「じゃあウクライナを越えて東ヨーロッパに行く」と答えると、彼がまた片道切符を買ってくれて、中華料理をごちそうしてくれた。みやさんはその片道切符でルーマニアとウクライナの国境に降り立ったが、当時はまったく言葉が全然通じなかった。

それぞれに濃き出会いあり春の暮

 駅の片隅に座っているみやさんの周りに、沢山のルーマニア人がやってきて、どこから来たのかというようなことを聞いているらしいが全く分からない。そのうちフランス語が分かる人が来て何とか話が通じた。そうしたら学生とか技術者とかドクターとか先生とか、どこそこにおじさんがいる、寄っていってくれ、などと手紙を書いてくれた。それが30通くらいあった。最初のフランス語の教師が「今日はうちに来ないか」、ということになって連れて行かれた。周りの羨望の目を後に感じながら。
 そのフランス語の先生のうちに1週間ぐらい過ごしていると、近くの子ども達が沢山来る。そしてその日本人をよこせ、いやうちが先だと喧嘩が始まる。中には泣き出す子もいる。「じゃあ皆んな並んで並んで、順番に行ってあげるから」と言うことになった。ある家で3日ぐらい居て次に行こうとすると、そこのおばあちゃんが「行かないでおくれ。あなたはもう家族なんだから、兄弟なんだから」と泣くのだそうだ。それでその家は何日か延ばした。
 ルーマニアにはそんな家が昔は沢山あった。どこに行っても。今でもそうだという。見知らぬ旅人、日本人、言葉の分からぬ者を子どものように大事にしてくれる。疲れてないか、食事が出て、お酒が出て、きれいなベッドを用意してくれて。

 みやさんは3カ月ほどルーマニアのあちこちで暮した。そして色々な人から言われたそうだ。「本当のルーマニアを知りたかったらマラムレッシュに行きなさい」と。
 あるときマラムレッシュに入った。100%木の家。日本の東北を思い出させる風景。馬を飼っている、牛がいる。東北弁のようなアクセントの言葉。
 そのとき牛が1頭道を歩いて行った。「牛は道を全部知っています。牛は何でも知っている」とみやさん。「星はなんでも知っている」という平尾昌晃の歌がはやったのは1958年だった。皆んなは「アハハハ」と笑ったがジジは「ウシシシ」と笑った。
 それはともかく、最初のマラムレッシュ入りから病み付きになって、働いては出かけ、出かけては好きになり、また出かけるということになったというのだ。途中は殆どヒッチハイクでどこでも誰も親切にしてくれたということだった。
 もう一つは後日行く予定のシーク村での娘さん達の踊りの印象。これぞ美の極地という感じですっかりみやさんはとりこになったそうだ。
 こうしてみやさんのルーマニアへの病み付きの旅は100回を越え、「羊と樅の木の歌」「ルーマニアの小さな村から」などの10数冊の本、「羊の地平線」などの写真集も出すようになったのだった。

暮れなずむ春の坂道牛歩む

 山が迫り、夕日が影長く雪の残る赤土の土手に影を落とす村に入った。家々は木の塀に囲まれている。所々に例の洗濯物を干した風景が見られる。それだけでも絵になるが、ご婦人でも、老人でも、もちろん子どもでも、馬車でも、牛でも、何か一緒だとますます生きた絵になる。

 そうした一軒にみやさんは入った。犬が見知らぬ客を激しく歓迎する。ジジはドムニッツァ宅と記憶している。ちかちゃんが「ブナズィア」などと言って後に続く。部屋には花模様のじゅうたんが敷いてあるが、若奥さんが靴のまま入れという。男の子が2人、そしておじいちゃん、続いておばあちゃんが部屋に入ってきた。しかもおじちゃんはおばあちゃんの腕を抱くようにして、二人だけの写真を撮ってくれという。大笑いしながらカメラマンが殺到する。日本ではこんな風景はまず見かけないだろう。天真爛漫というか友好的というか、初対面の訪問者に対する若奥さんの笑顔とその誘いぶり、そして年寄りの気取らない対応などは、みやさんならずともはまりこんでしまう独特の雰囲気だ。言葉はいらない。

 庄司さんが子ども達にキーホルダーをプレゼントし、陣山ちかちゃんが日本から持ってきた折り紙で鶴を折る実習を始める。ご一行様が助手となって国際交流が始まる。年長のマリアちゃんが賢そうな目と指使いで平和と友好の鶴を作り上げた。出来上がった折り鶴と残った千代紙は学校で憧れの的となることだろう。
 さっそく酒盛りが始まる。しぼりたての「山羊の牛乳」も出て来てちかちゃんは大喜び。我輩の仲間の「しろ」も姿を現して歓迎する。時間はねずみ算で過ぎていく。
 続いてナン先生の家に寄る。バイオリン奏者のイオンさんが来る。普段は農夫だが国際大会で入賞の実績をもつ。さっそく演奏が始まる。羊飼いの唄だそうだ。羊が行方不明になり、雲を見ては羊に見え、白い石を見ては羊を思い、そしてやっと羊を見つけて喜び、踊り回るという内容だと、みやさん。
 合間に酒が出る。1曲終わった所で挨拶と乾杯。曲の合間に奥さん自慢の黒豚のソーセージや手焼きのパンが出る。この味は絶品だった。4月19日までは断食期間でお祭り騒ぎは出来ないのが残念と言って、はるばるやって来た客人のためにとナン先生がタップ踊りの指導をする。若い順番に動きがよかった。仕上げは先生と娘さんのカップルでの踊りが激しいリズムを刻む。音楽に乗った踊りは悦びを造りだし、踊りに乗った音楽は幸せを醸し出していく。断食が明ければこの姿に衣装が着けられ、集団となって屋外に出る。踊る毎に飲み、飲んでは踊り、夜が明けて朝が来て、また夜が来て疲れ果てて倒れるまで2日、3日と悦楽の饗宴が続くのだという。

羊群れ化石めきたる村おぼろ

 3月27日金曜日。晴。7時起床、8時朝食。9時すぎ買物へ。みやさんはちょっと別行動。天気は良いが風は冷い。様々な露店に様々な人が群れている。本当に活気がある。カメラを向けると笑顔で応えてくれる。
 ある街角で品の良い2人のご婦人に話しかけられた。「みやこうせいさんを知ってます」。「10年来の友人で、会われたら家に来るように伝えてください」と。自分はハンガリー人だが主人はルーマニア人だともいった。集合写真を撮って別れた。

 10時30分、宿のティサ・ホテル前でみやさんと落ち合いクルージュに向けて出発。15分くらい走った所で風変わりな風景を見た。枯木に色とりどりの物がかぶせてある。何と食器などを乾しているというのだ。赤、黄、緑、白、そうした鍋の大きさからバケツ大まで約30個が枝にかぶせている。広い土地があるのだからそこに並べて乾せば良いのに、わざわざあの高さに乾すのにはそれなりの理由があるのだろう。我輩もこの景色は初めてだった。それはともかくジジを始めご一行様には写真の対象として大変気に入ったようだ。また家々の木造りの門は豪華なものだ。一軒一軒自慢の彫り物や、飾りものが施している。
 犬がよく吠える彫刻家の家に寄り、子山羊のいる農家に寄り南下を続ける。遠くの山々、近くの田畑、そして屋根には雪が残る。マーラを通り長い長い雑木林の峠を越える。カルパチア山脈の支脈だという。道の両側は2尺ぐらい雪が積んでいる。午後2時半、展望の開けた峠でひと休み。快晴だが風は冷たい。そして爽やかな味だった。
 前はシゲットにあった県庁が移ってきたバイヤマーレを抜け、夕日が指し始めたころクルージュの街に入った。
 ビルが建ち並び、車、人が群れている。古いビルの並ぶ一角の古い教会に入る。歴史のある荘厳なたたずまいだ。ステンドグラスも豪華である。教会前の広場では銅像に登る子ども達、ベンチに憩うアベックも見られた。だがそのベンチは青、黄、赤の三色に塗られていた。ルーマニアの国旗の色だが、チャウシェスク独裁の名残と聞いた。
 新しい街を抜けてまた田舎に向かう。午後8時15分、夕食会場に着く。予約席の2階は木造で心安らぐ。紅白の碁盤目模様の敷きものに置かれた大きな板に肉や野菜や果物が並んでいる。赤ワインが注がれる。静かな音楽がながれる。程なく民族衣装に正装した娘さん三人が来て、目の前でコンロを炊き、出来たてのシチュウが大きな皿にたっぷりと注がれる。ご一行様はその量に仰天して、「わー」「半分、半分」などと叫ぶ。オリビアさんが少し加減してもらったがそれでも二人前といった量だ。これが当店ご自慢の名物だそうで予約しても中々有りつけないというものだった。午後9時30分宿着。

残雪のカラパチア越え旅はるか

 3月28日土曜日。晴。7時15分起床、8時朝食。10時宿のビクトリア前に建ち並ぶ店に行く。すごい活気だ。食料品をメインに何でも売っているという感じだ。その店の一角でババはサラミの土産を買い占めた。バスでガラス製品の並ぶ店に行く。最初宿に予定していたトランシルバニアというホテルだ。しかし今日は大きなシンポジウムがあっている上に売店もしまっている。店を開けに来るというのを待っていたが時間がもったいないので別の場所に移る。良い品が安く売られていた。店の前には宝くじも売っている。結果が直ぐに判るそうだが、アパートやベンツが景品だと聞いてジジは持って帰るのが面倒なので止めにした。
 1時すぎブルーのテーブルシーツの部屋で昼食して、13キロ離れた隠れ里に向かう。3時近く村落が見える。白壁に暖炉の附いた褐色の屋根が並ぶ。シック村。人口5000人のハンガリー人村だ。衣装と歌と踊りの街と聞いた。日曜日になると5000人が民族衣装で勢揃いするという。世界で最も美しい村の一つだとみやさんは言う。人里離れたエアーポケットの存在なのだ。

 小高い丘近くで車は止まった。学校だ。二階建てで茶褐色の屋根。何と、民族衣装の男女が出迎えてくれている。衣装の形容はジジにはとても出来ない。赤と黒と白のチェックのドレスに黒地に赤、白の刺繍どりしたハンカチーフ、長く三つ編みした髪の先に結んだ地に届くほどの赤い髪飾り、赤い首飾り、そして黒長靴の女性たち。グリーンの上着に紺色のチョッキに黒ズボン、黒長靴、赤いネクタイ、そして黄色の丸高帽をかぶった男性たち。衣装もいいがその顔立ちが何ともいえない。「ヨナポーズ」(こんにちは)とあいさつを交わして写真を撮り、校内へ。ジジはちょっと失礼して離れの古い木造校舎のトイレに向かう。案に違わず昔なつかしい雪隠だ。用を足して校舎を覗く。こちらはコンクリート製で廊下はグレイ、壁は濃い緑と薄い緑のツートーンカラー。壁には校長か有名人だろうかという風貌の写真が掲げられている。教室には木造の机椅子が20人分くらい並んでいた。

 校長室でお茶とお菓子の接待を受け、衣装の説明を聞き、踊りの実際を見る。3人の楽団が奏でる音に合わせて、5組のペアが静かに踊り始める。ややあってテンポが早まると踊りにタップが加わり、女性群のスカート、髪飾りが大きく揺れる。4人組となる。右回り、左回り、激しいタップ。2列縦隊から2人組が歯切れの良い音楽に乗る。男子4人のタップ踊り。床を打ち鳴らし、手で両膝や靴を交互に打って踊る。少年でこれだから村人5000人の野外での踊りはどんなのだろう。最後に一番小さいが一番リズムのよさそうな男の子が独演をして、大きな拍手をもらって30分の熱演が終わった。

情熱と平和の踊り春の色

 午後4時20分ある民家に着く。門の外まで品の良いご婦人が出迎えてくれる。「クララさんです。うちの家族みたいなものです」と、みやさん。オリビアさんもタケさんも顔なじみのようだ。紺色の上下に黒のネッカチーフを被っている。張りのある高音で、どうぞお入りという。ご主人も出迎えに来る。瑠璃色の眼の色と黒い帽子が印象的だ。

 室内に入る。大きな織り機が置いてある。さっそく自家製酒が振る舞われフラッシュがたかれる。クララさんがちかちゃんの肩を抱いて写真に収まる。「これでちかちゃんはここの養子になりました」とジジが言う。みんなもそうだそうだと相槌を打つ。続いて二階に案内される。赤系統の飾りであふれんばかりである。織物、お皿、絵画、絨毯、暖簾、壁掛、枕、枕掛など様々だ。次男のヒストル君が入ってくる。美男子だ。さっそくルーマニア式の挨拶だ。女性にはキスをする。第1号はもちろんちかちゃんだ。といっても手の甲にするのだ。それでも大きな歓声が上がる。男性には握手だ。
 タケさんがこっそりとジジの肩をたたいて面白いものがあるからついて来いと誘う。物置だ。そこには沢山の黒長靴が吊るされ、自家酒や漬物の陳列だった。表の壁に吊るされた革製の酒入れがジジは気に入ったようだ。
 続いて庭に回る。にわとりが次々に囲いの中から出てくる。武田さんが1羽だけでいいから持って帰ろうと集団を追い掛けるが、怪しい奴めとリーダーの合図で逃げられてしまった。庭のにわとりは二羽狙え、二羽追うものは一羽も得ず。格言通りだ。
 5時半、お別れとなる。驚いたことにクララさんはバスに乗り込んできて1人1人に頬をこすり着け愛のシグナルを残す。東洋からの客人は照れたような笑いで応える。ビデオを回していたジジまで頬づけがやってきた。これはどうやって写せば良いのだとジジは悲鳴を挙げた。とにかく愛と夢とお伽の国だ。
 このクララさんのことは、98年5月末のTBS「世界ウルルン滞在記」で、女優の羽田美智子さんが彼女との再会記録を流したので、見た人もいるかもしれない。
 小雨が落ちてきた。バスはガタガタ道を走る。かっての日本そのままの道だ。みやさんはここに30回以上は来ているそうだ。ここの人間が、ここの自然が、ここの風俗が、そのすべてが好きで好きでたまらないという。1回で終わる人はずいぶん勇気のある人だと笑う。最初のころ結婚式に出たことがあった。飲んで歌って踊って眠くてたまらない時、一人の若者に家に来いと誘われた。「うちにはベッドが沢山ある」「職業は何だ」「棺桶作りだ」。さすがのみやさんもショックでその家には行かなかったそうだ。

朝の鐘春の心に沁み入りぬ

 山道を抜けて修道院に着いた。一面雪の平原だ。十字架の窓のある、寮と思しき建物の外に衣類が乾してある。雪が降りしきる。二層になった鐘楼のそれぞれの頂きにある十字架にも雪が降りかかる。幻想的な風景だ。平野の先の黒の木立にも雪が降る。さらに幻想的だ。その黒と白の幻想画の中から木挽き馬が現われた。馭者が馬を抱き抱えるようにして「ホオー、ホオー」と掛け声を掛ける。赤い飾りをつけた馬は激しく首を振り、白い息を吐き、重い木材に喘ぎながら雪道を下る。折りから告げ始めた「タンタンタンタンタンタン」という教会から響く木の音に乗って心揺する感動の画面となる。
 木の音が鐘の音に変わった。みやさんが鐘楼に登ってみようという。真っ暗闇の中を手さぐりで足場の悪い木の階段を登る。毛糸の帽子を被った若い娘が長さ6尺、幅1尺くらいの板を両手の木槌で激しくたたいていた。リズムがゆるやかになって木の音が終わり、反対側に回って鐘の方に移動する。カメラに向かってニコッとした。美少女と思ったのは実は美男子だった。ここは男子修道院だったのだ。4尺位の鐘の外についた紐を両手で引いて離すと、反動で鏡の中の振り子が鐘に当たってグオーンと大きな響きとなる。眼の前で教会の鐘を聞くのは勿論初めてのジジだ。30秒で小さな音に変わり20秒続いて終わる。十字を切って木の板に向かう。激しい響きが30秒続いてゆるやかに30秒。そしてまた鐘に向かうのだった。煉瓦作りの塔の、明かり取りから差し込む日の光は神秘的だった。
 階段を下りる。そこでは子供が天井から下がった長い紐を引いて鐘をついていた。それぞれの音は調和し、それによって人々の心は和んでいくのであろう。宗教が人間と繋がっている何かを感じたジジだった。
 7時25分、ピンクのテーブルクロスが敷かれた部屋で夕食。ポンというワインの栓抜き音。今日は白だ。サーモン料理。1時間後にお皿山盛りのアイスクリームが来る。後のコーヒータイムを含めて蚊帳の話、旅の話、インターナショナルの歌の話、マルクスのルーマニア論、オリビアさんが藤娘を十八番にしている話、何も知らない何も読まない日本の大学生、講義中に漫画を見る大学生、ルーマニアの人々の暖かさ、オリビアさんの組織力、タケさんの大変さ、みやさんの命をはって開拓された遺産の素晴らしさ。それにつけても日本の未来の暗さは何だ。日本人はどうしたら目覚めるか、など延々と続いた。時間の半分は実は夜行列車の時間待ちだったのだ。
 9時35分クルージュ駅に着く。タケさんとはここでお別れだ。タケさんは車で、ご一行は列車でブカレストへ。良い出会いを、良い旅を本当にありがとう。ラレデベーレ(さようなら)。

雪繁き修道院や鐘の音

帰路の旅

ユダヤ人墓地で