アウシュビッツ

 第二次世界大戦中の5年間、ナチス・ドイツ占領下の国々から、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)共産主義者、反ナチス活動家、リベラリスト、戦争に反対する人々が捕らえられ、各地にある強制収容所に送られた。あるものはすぐに殺され、あるものは酷い労働のあと殺された。この絶滅殺人工場となった強制収容所がクラコウの西50㎞のオシフィエンチム郊外にある。ドイツ名「アウシュビッツ」。ここで400万人が殺されたといわれる。

 1939年9月、オシフィエンチム市一帯はドイツ帝国の一部となり、ナチスはその名をアウシュビッツと変更した。そしてポーランド軍の基地があったこの地を強制収容所と決めた。郊外にあり、鉄道の便もよかったからだ。所長ルドルフ・ヘス。1940年6月14日728人のポーランド政治犯護送から絶滅計画は開始された。当初20の建物に一時は約2万8千人が収容されていたが、囚人数が増加すると共に収容施設も拡大され、絶滅工場に変わっていく。つまり労働力にならない者は殺され、労働力になるものは次の収容所建設などにかり出された。3㎞離れたビルケナウに2号、さらに3号と囚人たちの労働力を利用した工場、鉄工所、炭鉱の近くに約40ヵ所のミニ収容所が作られていった。
 アウシュビッツ(1号)とビルケナウ(2号)は国立博物館として現在特別に保管され見学できる。東のヒロシマ、西のアウシュビッツ、といわれるこの地にジジは今、立ったのだ。
 収容所正門に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という空々しいプレートがそのまま残されている。このうちのBの文字は上下逆さまに上が膨らんでいる。作業にあたった囚人がせめてもの抵抗でやったのだ。この門をくぐった囚人たちは毎日労働に出かけ、また帰ってきた。その囚人の数を数えやすくするために、そして囚人が行進しやすくするために、音楽隊によって行進曲が演奏された。

 この門以外は高い金網と有刺鉄線が張り巡らされている。囚人たちは最初の日に管理局長から言われた。「お前等に出口は一つしかない。焼却炉の煙突だ」と。集合写真を写して展示見学に出かける。14歳未満はショックが大きいので見学出来ない。
 4ブロック。「絶滅」の記録が1階、2階の6つの部屋に展示されている。3号室。収容所にギリシャなど遠くから送られたユダヤ人の多くは、東ヨーロッパに移住させられるだけだと信じさせられていた。ナチスから、存在しない農場、土地を購入させられたり、全財産を持参していた。列車で収容所に着いた人々は将校と医師に選別された。労働出来ると判断された者は収容所へ、仕事が出来ないと判断された者はガス室へ。女性、子供など70%から75%がガス室行きだった。

残雪やアウシュビッツの門に立つ

 ガス室に送られた人達は、ここでシャワーを浴びるのだと説明されていた。脱衣室で洋服を脱がされ、シャワー室に見せ掛けた地下室まで歩かされる。210㎡(636坪)の部屋に2000人が押し込まれる。そして扉が閉じられる。ナチの衛生兵がその中へチクロンBという猛毒を投入する。中の人々は15分から20分で窒息して死んだ。死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪、ピアスが抜き取られた。そして死体は一階の焼却炉へ、死体が多いときは外に運ばれ積み上げられて焼かれた。

 4号室にはおびただしいチクロンBの空き缶が積み上げられている。ヘス元所長の証言では1500人を殺すのに7キロの毒ガスが必要だったという。アウシュビッツだけで1942年から43年で2万キロのチクロンBが使用された。缶にはドクロのマークが印刷されていた。
 5号室。二部屋一杯に、刈り取られた髪の毛の山。収容所が解放されたとき倉庫の袋に入っていたものだ。総量7トン。向いの部屋にはその髪の毛で造られた布地が置かれている。マットレスなどにも使われたという。抜かれた金歯は金の延べ棒になり、焼かれた灰は肥料や石けんとなった。

 第5ブロック。罪なく殺されていった人々の所持品が展示されている。部屋ごとに、めがねの山、身体障害者用の義手・義足の山、食器・ボールの山、住所や名前の書かれたトランクの山、靴の山、かごの山、歯ブラシ・ひげそり用ブラシの山…言葉がない。そうした中でも小さな靴、小さな洋服、人形、そうした品々が無心に、そして鋭くジジ達に訴えかけて来た。
 第6ブロック。「囚人」たちの生活の様子がわかる。3方向から写真を取られ、後には刺青の番号になった。人数確認の点呼は数時間に及んだ。19時間かかったという記録もある。人々は様々な労働で死んでいった。仕事は休みなしで走りながらであった。仕事帰りの手押し車は死体の山であった。朝食は500ccのコーヒーと呼ばれた液体、昼食は1リットルの水のようなスープ、夕食は300グラムの黒パンと3グラムのマーガリンと薬草。重労働と栄養失調で最期は死んでいった。やせ細った女性の写真が残されていた。

 こうした地獄を見たもののうち、好運にも助かった人が7000人いた。その中の例えば画家達は、当時の雰囲気を作品に生々しく書き残している。
 7ブロック。住居・衛生状態は悲惨だった。コンクリートと藁の上に寝るのが普通で、50入部屋に200人ぐらい住んでいた。ナチに協力した者は自分の部屋が持てた。伝染病が次々と襲ったが病院は満員だった。そこはガス室に送る選別の場所であると共に、新薬や生命絶滅方法の実験場でもあった。病院は「焼却炉の玄関」だった。

「働けば自由」虚しき響き雪の門

 第10と第11ブロックの中庭は「死のブロック」と名付けられていた。死刑執行場だ。両側は高い壁で区切られ、窓は黒い板でふさがれていた。「コ」の字型の突き当たりは「死の壁」で、この前で数千人の囚人達が銃殺された。主にポーランド人だったという。室内もそうだがここにも沢山の外国の修学旅行生が来ていた。あるグループは代表が平和のメッセージを読み上げ、花束をたむけていた。
 それが終わるのを待ってリーダーのお寺さんが「お祈りしましょう」といった。皆の気持も同じだった。祈ることさえ死者への冒涜ではないかという気もしたが、ここでは祈るしか他に方法が見出せない。残雪の中の沢山の花束、そして赤々と燃えつづけるロウソクの光が平和につながって欲しいと、ジジ達も共に手を合わせたのだった。

残雪や祈るのみなり死の壁に

 囚人達には形だけの裁判が行われた。臨時裁判官がやってきて、2時間から3時間で数十人から百数十人の死刑判決を下した。判決を受けた囚人達は脱衣所で裸にされ死の壁の前に立たされた。死刑判決が少ないときは、脱衣所で死刑執行されることもあった。
 他にも懲罰は沢山あった。労働中に排泄した、自分の金歯をパンと替えた、りんごを拾った、のろのろ働いた…。それで鞭打ち、後ろ手にしばってつるす、移動絞首台で処刑する…。
 地下牢に行く。規則違反で懲罰を課せられた者、脱走を助けようとした収容所付近の一般住民、脱走犯の仲間、彼らには餓死だけが待っていた。他人の身代わりとなったポーランド人のコルベ神父もここで死んだ。その独房にはローソクが灯されていた。
 「立ち牢」があった。90㎝四方の中に4人が立ったまま収容されたというのだ。

死ぬよりも厳しき牢や雪の地下

 息苦しくて逃げるようにして外に出る。気分が悪くなって休んでいる女学生の姿もあった。
 バスで3キロほどの、アウシュビッツ2号・ビルケナウ収容所に向かう。正門にはレンガ造りの「死の門」といわれる中央監視所があり、その下を通って囚人達を運んだ鉄道の引込み線が延びる。ビルケナウ収容所には300棟以上のバラックがあったが、今は木造バラックなど一部しか残っていない。ナチスが撤退するとき爆破したからだ。50頭入りの鳥小屋を改造して1000人を収容したという木造バラックを見て、監視塔に登る。50万坪の絶滅収容所跡が一望できる。煙突が林立する。引込み線は一直線に奥に伸び、線路が切れた突き当たりにガス室」焼却炉がガレキの形で残っているという。時間がなくて行けなかったが、脱衣室、ガス室、焼却炉の跡がはそれとなくカメラに写る。突き当りに1967年除幕された「ナチス政権下犠牲者国際記念碑」がある。くしくも今日は春分の日。

幾百万の犠牲に祈る中日かな

 1995年1月27日、旧ソ連軍によるアウシュビッツ解放50周年記念日のこの日、アウシュビッツとビルケナウで犠牲者の追悼式典が行われた。式典には時おり小雪が舞う中を、関係27ヶ国の元首・首相、収容所の生存者、解放を指揮した旧ソ連軍の指揮官など5000人が参加して、ナチスの非人間的行為の犠牲者を追悼した。
 新聞報道によると、この日の式典はアウシュビッツ収容所のあの「死の壁」への献花で始まり、ワレサ・ポーランド大統領は、「私たちが今通った道は諸民族、とりわけユダヤ民族の受難の道である。この道は数百万人の体験であるだけでなく、数百万人にとっての教訓とならなければならない」と演説。
 続いて3キロ離れたビルケナウ収容所に移動して追悼式典が行われ、27ヶ国代表が記念碑に花輪をささげた。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の様式による犠牲者追悼の朗唱もあり、当時の囚人服と同じ縞模様の服をまとった参加者もいたという。

 ノーベル平和賞受賞者で、この収容所の生存者であるウィーゼル氏(米国)はビルケナウの式典で「犠牲者のすべてがユダヤ人ではないが、すべてのユダヤ人が犠牲者である」と述べ、世界各地で今も続くテロと流血を中止するよう訴えた。
 前日の26日には、ドイツ各地でも追悼と反省の行事が行われた。ドイツ連邦議会では全議員が起立する中、議長演説があり、「アウシュビッツの傷跡を消してはならない。虐殺の事実を否定する者は死者を冒涜している」と警告した。
 コール首相はアウシュビッツでの大量虐殺を「ドイツの歴史の最も暗い、最悪の部分」とのべ、外相は「反ユダヤ主義や外国人排斥、戦争を二度と許してはならない」と訴えた。
 しかし、あれから50年を経て、政府高官がこのような演説をしなければならないほどに、「不気味な兆候」は広がっている。ある程度取締りで押さえられてはいるが、ユダヤ人や外国人を排斥する右翼運動が活発化している。また、ユダヤ人虐殺は連合国や旧ソ連のでっち上げとする「アウシュビッツのうそ」を右翼思想家たちが唱え始めている。

 ここらあたりは日本でも同じだとジジは思っている。かって中曽根康弘は「私の尊敬する人はヒットラー。愛読書は『わが闘争』(ヒットラー著)」といって憤激を買ったそうだ。「南京大虐殺」や「慰安婦問題」の否定や過小評価で真実を見ようとしない動きもある。最近は『プライド』いう東条英機を「殉教者」扱いした映画が問題になっている。ここまで来たかという思いだ。インドやパキスタンの核実験を経済問題とすり替える動きも、およそ地球的発想ではない。怖い時代だ。せめて楽しい話をと思うジジだった。

さまざまの民の匂ひや春の宵

クラコウにて

クラコウへ