ルーマニア

 このベレー帽をかぶった長靴に赤と白のジャンパーをまとった老人を我々は「変なおじさん」と呼んだ。色々しゃべった後、ぜひ地下室を見てくれという。どうやらご自慢の手作りブドウ酒があるらしい。チカちゃんに続いてジジも降りる。樽からフラスコに汲み出したブドウ酒を持って上がり、皆にふるまってくれた。香りが何とも言えないが、舌ざわりはジジには今ひとつ。

 どこから来たのかと言う。「何人に見えるか」と返す。「インド人」と返された。大笑いだった。「日本人だ」とみやさんが言うと、そういえばテレビで見たという。また大笑い。最後は車まで送ってきてぜひ写した写真を送ってくれといって、村上さんからタバコとサインしたボールペンまでせしめて帰って行った。まったく変なおじさんだった。
 車は夕日の美しい並木道を走る。突然パトカーが行く手をふさぐ。怪しい車に怪しい東洋人が乗っているという訳だ。パスポートを見せろといって、みやさんの分を偽札でも調べるかのように夕日に向かって透かして検査した。どうなることかと見ていたバスの乗客はこれには大笑いだった。パトカーはしばらく後をつけて立ち去った。
 夕方が近いのに家々には明かりが灯っていない。みやさんによると夕日が沈むぎりぎりまで外の明るさを楽しむのだそうだ。暗くなっても必要以外の明かりは使わない。これぞ本当の生活だと思った。
 6時4分、別のパトカーの検問があった。近くに川があり時々密入国があるらしかった。リーダーは警察の前を通って森の中へ用を足しに行った。軽犯罪に触れるかどうか実験したそうだ。
 午後8時半ハンガリーとルーマニアの国境に着く。国境警備兵が車に入って来て面通しだ。「はい」「ハイ」「イエス」とそれぞれ返事をして、チカちゃんはウインクをもらって、憧れのルーマニアの入り口サトゥ・マーレに入った。午後9時を10時にする。ややこしい限りだ。ホテル・ダチアに入る。王宮か博物館かといった外見だが、なかはいたって質素、というかお粗末。階段に紅白のまだら模様の敷物がそのお粗末さをカバーしていた。10時45分夕食。バンド演奏付き、ワインにスープ、パン、肉料理は腹も減っていたのかジジにはうまかったそうだ。
 ルーマニアは19世紀末に整備され、フランス風の街並みはバルカンのパリと呼ばれた。しかしあのチャウシェスクの登場で街並みは一変する。首都ブカレストには80㎞に及ぶ地下道を掘り、世界最大級の国会議事堂を作った。
 1989年この独裁者が失脚した流血革命は人々の記憶に新しい。傷跡はまだ癒えないしインフレも続いているが、民主化の完成に向かっての波は都市建設の音、街を行き交う人々の姿に間違いなく感じられた。

さまざまの建設に見る春の音

 3月26日。朝4時31分、同室の武田さんがシャワーを浴びている。昨夜が遅かったので風呂がわりに、そして洗濯もやってるらしい。ジジは猫寝入りして6時49分起床、7時47分朝食、8時12分出発予定。
 ジジのメモはそうなっている。下らぬメモだ。実際は8時39分にサトゥ・マーレを出発。小鳥がさえずっていた。目的地はマラムレッシュ。道路工事で渋滞している。進行方向左手に9両編成の列車が通る。すぐ後から貨物列車が追い掛ける。前の列車が止まった。後の列車は止まらない。これはやばい。ぶつかる、ぶつかる、こりゃあ大事故だ、とバスの乗客がハラハラしていると、後の列車は前の列車の横を通り過ぎた。複線だったのだ。安堵の高笑い。9時2分。渋滞を抜けて田舎道に入る。牛づれ、馬づれ、羊づれの人々が通る。どこかで動物市があっているようだとオリビアさん。猫市、人間市はない。
 ルーマニアは今インフレのようだ。1ドル約130円が8350レイ。つまり1円が64.2レイ。今朝ババが30ドルを換金したら250500レイという大金をもらった。物価は安いのだが写真集156円が10000レイと聞くといかにも高そうだ。牛はいくらぐらいで売買されるのだろう。
 雪道の林を抜けて山道に向かう。このあたりの若者は気が荒く、常にナイフを隠し持っている。といっても人をあやめることはめったにしない。山に入り枝を切る。チーズを切る。時には争いごとに使うこともある。担架に乗せられて帰ることもある。その前に啖呵を切る。詩心のある人は短歌を作る。むこう傷を作らない若者なんか娘さんに嫌われるので、若者はみな勇敢だ。毅然として誇り高い。果し合いは日常的で、臆病なものは仕方なしに自分で刀傷を付けていた。以上は勿論みやさんの解説だ。20年前はそうだったと。

 国道19号線のオアス市の市場で買物をする。みやさん、村上さんは音楽テープが目当てらしい。果物、野菜、雑貨の露店が並び、子ども連れも多い。道路に雪が残っている。道の両端には豪華な家が並ぶ。褐色の屋根に白い壁が統一された色彩だった。出稼ぎで現金収入があるが、使い道がないのでまず家を建てる。ある人が3人家族で5人が住めるような家を作ると、隣の人は5人家族で10人が住めるような家を作るということだ。犬小屋や猫小屋は無かったらしい。
 再び雪の山道にかかる。カルパチア山脈の北端と思われる。このあたりも電話は少ない。「電話ってどんなものかね」「長い長い長い犬を考えてごらん、東京から大阪ぐらいの。東京の方でしっぽ振るだろ、すると大阪でワンとほえる。これが電話さ」。「じゃあ電報は」「それは犬なしの電話さ」。そんな下らぬみやさんの一席に拍手して雪のレストランで休憩。雪のぶな林をひた走る。

雪どけの泥の中なる民の幸

 この辺りの人々の視聴覚は異常に発達している。みやさんは闇夜に3km位先から挨拶されてびっくりしたことがあったそうだ。視力3.0ということか。民謡なんぞは2回もきけば覚えてしまうので、結婚式は100人ぐらいが次から次に歌うので、どうしても一晩中歌うことになる。どの歌も全員が知っていて皆で同じ歌も歌う。頭の善し悪しというより、全身全霊で覚えるとそれが可能なのだろう。
 川岸に出る。ティサ川だ。対岸はウクライナ。1m先がウクライナという所があるので、警備兵がいなければ車を停めて写真を撮りましょうとみやさん。バスが止まった。六尺位の大きさの、白ペンキにルーマニア国旗の描かれた木製の標識が建っている。警備兵は見当らない。オリビアさんはしきりと止めるが、みやさんを始め全員がバスを降りた。それぞれ国境標識をバックに写真。そして対岸の様子を納めた。緊張の走った2分15秒だった。
 一つの村がルーマニアとウクライナの二つに分かれている所がある。こちらに息子、あちらに父が住んでいる。法事があると許可をもらい、ビザをもらって国境を越える。昔は大回りをしていた。葬式に間にあわない事だって沢山あった。
 冬景色を抜け切らない季節なのでこれだけ国境の向こうが見えるのは珍しいということだった。今でも国境周辺の撮影は禁止で、見つかるとなにか言われるかもしれない。一度みやさんは見つかって、たばこ1箱で見逃してもらったことがあったそうだ。

 再び街中に入る。しばらく行ったところで車が停まる。家の前の川で洗濯している一家にむかって、みやさんが近づく。どうやら顔見知りのようで、写真を渡していた。犬がしきりと甘えていた。我輩と同じくらい利口で、みやさんを覚えていたようだ。
 家々の塀に織物を乾している街に入る。どの家にも織機が置かれ、娘の数だけあるともいう。羊毛製品で、殆ど売り物だそうだ。
 不思議の国のアリスのように、奥の細道を抜けて木造の大きな建物に着いた。博物館だという。彫刻家が住んでいて人物像などの彫刻をする。村の人を全部知っているので特徴をつかんで詩をかいたり絵を入れてお墓の標識になるというのだ。中に入る。部屋中鮮やかな人物の彫刻がぎっしり。例の独裁者チャウシェスク夫妻の大きな肖像もある。有名な歌手の像もある。家族を大事にしないで酒を飲む男、抱き合っている幸せな夫婦といった具合だ。製作工場を覗くうちに自家製のブランデーが出されて夫婦して歓迎してくれた。二度蒸留し52度あるという。これを一口で飲むのがしきたりだというが、ババにはとても出来なかった。人形さんのような3人の子ども達と写真を撮って記念とした。今度来れたらどんな娘たちになっていることだろう。

悠久の平和を思う異国春

 豪華な木彫りの門のある建物に着く。「愉快なお墓」だ。およそ日本では信じられない事だろうが、「それぞれの故人の業績が楽しく愉快に書かれている」と入り口に彫刻されている。先ほどの博物館でみた彫刻の下にそれぞれ文章が書かれ、その上に十字架が彫られ、合掌造りのような屋根が着けられている。大きさは色々だが、おおよそ6尺といったところだろう。色彩鮮やかに様々に書かれており例えばこんな文言がある。「私はきれいなものが好きでよく働きました。私の織物は村で一番良かったです。2人の子ども達も私の面倒をよく見てくれた。76歳まで生きた」。絵の方は機織りしている婦人の姿。「私は沢山の人に家を建てました。今は別のところにいますが、皆さんも同じところに行きますよ」。これは大工さん。「私の人生は氷のように溶けました。雷に打たれて死にました。お父さんは大変悲しんでいました。19歳の時でした」。これは悲しい出来事。「私は羊の世話をやっていて、悪いハンガリー人が来て私の頭を切りました」。殺される前と、切り離された頭をもった兵士の姿が彫刻されている。どうも戦争で殺された様子だ。

 とても「愉快な」とはいえない内容の物も多いが、だれが見てもリアルに故人の姿が表現されていて、「○○家の墓」というのよりはよっぽどいいと我輩は思う。ちなみに土葬だそうだ。ジジババは土葬禁止だから、我輩はこの手でやってもらおう。ババは見本のミニ版を買ってきているので、暇を見て我輩も彫ってみるとするか。
 愉快なお墓の近くの家々には、例の織物がずらりと乾していた。その一軒に入ると納屋一杯に織物が積んであった。大小様々だが白地に薄い紫と鮮やかな赤が織りこまれていてシンプルだ。大きいのでも小さいものでも5万レイという。つまり778円ということだ。武田さんはこれを2枚も買って、持ち帰るのに大変だったそうだ。
 この織物はただ乾せばいいというものではない。実は織った後洗濯をするのだ。共同の洗濯場に回る。人工的に作られた2m位の瀧から落ちる雪どけ水が、織物を入れた隙間の開いた風呂おけみたいな入れ物に落下して、自然の洗濯機となって中の織物が回転している。この冷水を受けてしっかりした織物になるのだった。その洗濯機の造作と水の音に感動したジジだった。織物の洗濯が終わる間、瀧の上流では身の回りの物を洗濯していた。 道は郊外に続く。ウクライナがよく見える小高い丘に停車。オリビアさんが50秒だけと念をおす。日本流で言えば道祖神にあたる十字架像があった。間もなくシゲットに入るという。前は県庁のあったところだが今は山向こうのバイヤマーレに移っている。このあたりはハンガリー、ウクライナ、ルーマニアの教会が並び建っていた。

様々にチャペルの音や春おぼろ

ユダヤ人墓地で

ハンガリー