ハンガリー

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渋滞だ—と思ったら、交通事故だった。赤い車が真っ二つになっていて、そばに子どもが寝かされている。今起きたばかりのようだ。5時20分。「怖い!」「見ない方がいいよ」といいながら30分ほどで渋滞を抜けたところで救急車2台とすれ違った。黄色い車体の屋根に青の信号を点滅させているが日本流のピーポー、ピーポーは鳴らしていなかった。
午後8時20分、夕闇迫るころスロバキアとハンガリーの国境に着いた。道に雪はないが勾配の厳しい屋根に残雪がある。今回の国境越えの手続きは25分で終った。乗用車の手続きは簡単だが、トラックは数十台並んでいた。書類検査、荷物検査が大変なようだ。
川岸に出る。ドナウ川だ。「ドナウ川はヨーロッパ一の大河です。『父なる川はライン川、母なる川はドナウ川』といわれています」。みやさんの解説がドナウ川のように滔々と流れる。イワノビッチの「ドナウ川のさざ波」でも聞きながら見聞きしたいところだが、夜中の10時を過ぎているので漆黒の闇の街を近道し、ドナウ川との対面は明日にする。家々のあかりも街の照明も本当に必要最小限度だ。日本の照明はやっぱり異常だろう。
とはいいながらブダペストの街中はさすがに明るく華やいでいて、「ウィーンと変わりません」というみやさんの解説だった。10時50分宿に着く。外見はレトロ風のピルだが、中はビジネスホテルに改造されていた。これも必要最小限度の宿だ。12時に夕食終了。ジジは同室の武田さんとドナウ川の夜景を見に行ってビールの酔いをさまし、午前1時すぎに宿に帰った。

外はレトロ内はモダンの宿の春

3月25日。6時30分起床。8時朝食。ここから先はババとジジはご一行様と別行動となる。6年前になるがババが飯塚の伊岐須小学校という所で1年生を受け持ったとき、アンナちゃんというハンガリー人を受け持った。お父さんが九州工業大学の留学生として来たので、一家あげての来日だった。一家は皆んな日本は初めてで、言葉も習慣も違ってアンナちゃん達もババも大変だったようだ。少しだけ平仮名がわかるお母さんと辞書を片手に、マジャール語という日本では2、3人しか話せないという言葉を、手振り首振りで理解しあったという。利口なアンナちゃんはすぐに日本語を覚え、友達もでき、運動会の練習では日本式集団練習のおかしさを指摘してババを考え込ませたり、「戦争放棄の憲法9条が世界のきまりになるといいね」と訴えるなど、様々なエピソードを残して1年後にハンガリーに帰っていった。今度の東ヨーロッパの旅で、ハンガリーにも行くと聞いて、ババはもしかしてアンナちゃんに会えるかもしれないと久し振りに手紙を書いたのだった。

歴史つげ音の流るる春の暮

まもなくアンナちゃんから返事が来た。「せんせい おげんきですか。せんせいに おてがみをもらって わたしはとても うれしかった。にほんごを だんだんわすれてしまうけど せんせいのことを いつまでも わすれませんよ。(ぱるな あんな)
もちろん わたしたちも ぜひ あいたいですね。ブダペストに とうちゃく したら どうぞ でんわ してください。(中略)せんせいの くるのを あんな ちゃんと いっしょにまっています。(カラ マリア)」
マリアさんはアンナちゃんのお母さんだ。こうして再会の約束ができたのだった。ところが前日は例の国境越え騒ぎの上、途中で止めてもらって連絡を取ろうとするがうまく行かず、宿に着いた真夜中にやっと時間、場所の打合せができたババだった。
午前9時、ドナウ川の岸辺でジジババが待っていると、それらしい3人の親子連れがやって来た。まっ赤なスラックスに空色のジャンパー姿のアンナちゃん、ジーパンに空色のジャケットのお母さん、そして赤いチェック柄のスラックスに赤いジャンパーに紫のリュックサック姿は妹のバルダちゃんだった。ババは小踊りして三人と抱き合って再会を喜んでいた。ジジも初めはビデオを回していたが、初対面の挨拶をする。アンナちゃんはとても小学校6年生とは思えない娘さんだ。170㎝はあるという。恥ずかしそうに、しかし美しい笑顔を見せた。お母さんは「日本語はあまり話せなくて」といいながら、ジジよりも上手な日本語で色々と話してくれた。妹のバルダちゃんは快活で、人みしりしない小学生だ。
「もうちょっとしたら私のお友達の松本あかねさんが来ます。日本人です。少し見物して私の家に行きましょう。私の母が料理をして待っています」とお母さん。河岸に出てドナウ川を見る。すこし茶色を帯びた水量豊な流れである。このあたりの地理や歴史をアンナちゃんが説明し、お母さんが通訳してくれる。そして写真を撮ったりするうちに松本あかねさんがやってきた。小柄で長い髪の可愛らしい人だ。ブダペストの大学に留学して学ぶうちに伴侶が決まり、最近結婚したという。しかし生活はなかなか大変らしい。
お母さんの運転でエルジェーベト橋を渡り、王宮の丘に向かう。ブダペストはドナウ川によって西のブダ地区と東のペストに分けられる。王宮はブダ地区の丘にそびえる壮麗な宮殿だ。各時代に様々な様式で増改築が繰り返されたのでゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック様式が混在している。1903年代に一応の完成を見たが、第二次大戦で損害を受け、戦後建て直されたものがほとんどだという。ドナウ川の展望、大戦の傷跡を復興する姿、そして壮麗なマーチャーシュ教会等を見てアンナちゃんの家に向かった。

行く春やドナウを渡るチャペルの音

アンナちゃんの家は小高い丘陵地の様々なアパートが並ぶ住宅地にあった。2LDKというところだろうか。窓からふと隣のアパートを見ると壁一面穴だらけだ。弾丸の跡だ。戦争の傷跡が本当に身近に残されていた。前に写真では見ていたが、実物をみてジジも驚いていた。
アンナちゃんのおばあちゃんもババの事をよく覚えていて、アンナちゃんが具合が悪くなって家まで送っていった事を今でも感謝していると話して、ババを感激させた。たくさんの人形や本が置かれている子供部屋兼居間という感じの部屋で昼食が始まった。山盛りのシューマイ、大きな器の中華麺。メインのお料理だそうで、お客は全部食べないと明日の天気が悪くなるということだった。子どもたちも勧め上手でジジババはすっかり満腹になった。
ババはお人形や敷物、昔のお友達からのプレゼント、そして今度同行したチカちゃんや庄司さんからのペコちゃんのお菓子のお土産などを渡し、アンナちゃんからはカレンダーをもらったりして、昔の写真を見ながら話に花が咲いた。さらにアンナちゃんとバルダちゃんからは、習っているチェロやギターのコンサートをしてもらった。
 別れを惜しみながら、アンナちゃんとお母さんと松本さんは、ご一行が昼食しているレストラン迄送ってくれた。ご一行様も小学校1年生の姿を想像していたのに、170㎝のレディが目の前に現われて仰天していた。
手作りのお菓子を戴き、是非日本にもいらっしゃいといって別れ、午後2時ルーマニアに向けて今日の360㎞の旅へ出発。世界で一番古い地下鉄を見、色彩や高さを調和させたこれぞ都市という建物の街を抜け、郊外を走り、森を抜け、サッカー場が無数に取れるどこまでも広がる大草原でひと休みし、車はひた走る。もちろん車中では世界から一度は消されたユダヤの音楽テープが流され、みやさんの解説が加わる。
はてしなくまっすぐに伸びた道を通り、茅葺きの田舎に入った。洗濯物が沢山乾してある。例によって車を停めたみやさんに皆んなが続く。写真に家や洗濯物を納めていると、一軒の家の前にいかつい体格の、目の鋭いお年寄りがいた。ジジなんぞは逃げ出したいところだが若いチカちゃんは違っていた。近づいていっしょに写真を撮った。「国際交流だね」などと言いながら「ミンデヨン」と言って別れようとしたとき、リーダーの村上さんが屋敷の中に誘われた。皆はバイバイを言った後なので、格好つかずに村上さんにもバイバイをした。村上さんも引っ込みつかずにバイバイして屋敷に入った。一人にする訳にもいかず「5分だけ」と言って何人かが続く。大きなブタがいた。トン舎一杯身動き出来ないくらいのトンでもない大物。「5分たちました」と時間を気にするオリビアさんが出発を促す。

豊かさは彼岸の土に根ざしけり

このベレー帽をかぶった長靴に赤と白のジャンパーをまとった老人を我々は「変なおじさん」と呼んだ。色々しゃべった後、ぜひ地下室を見てくれという。どうやらご自慢の手作りブドウ酒があるらしい。チカちゃんに続いてジジも降りる。樽からフラスコに汲み出したブドウ酒を持って上がり、皆にふるまってくれた。香りが何とも言えないが、舌ざわりはジジには今ひとつ。
どこから来たのかと言う。「何人に見えるか」と返す。「インド人」と返された。大笑いだった。「日本人だ」とみやさんが言うと、そういえばテレビで見たという。また大笑い。最後は車まで送ってきてぜひ写した写真を送ってくれといって、村上さんからタバコとサインしたボールペンまでせしめて帰って行った。まったく変なおじさんだった。
車は夕日の美しい並木道を走る。突然パトカーが行く手をふさぐ。怪しい車に怪しい東洋人が乗っているという訳だ。パスポートを見せろといって、みやさんの分を偽札でも調べるかのように夕日に向かって透かして検査した。どうなることかと見ていたバスの乗客はこれには大笑いだった。パトカーはしばらく後をつけて立ち去った。
夕方が近いのに家々には明かりが灯っていない。みやさんによると夕日が沈むぎりぎりまで外の明るさを楽しむのだそうだ。暗くなっても必要以外の明かりは使わない。これぞ本当の生活だと思った。
6時4分、別のパトカーの検問があった。近くに川があり時々密入国があるらしかった。リーダーは警察の前を通って森の中へ用を足しに行った。軽犯罪に触れるかどうか実験したそうだ。

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